日記帳

ぼくの日記です。

2023年7月17日

言いたくないと言ったことは無理に追及しないで欲しい。

 

自分のコンプレックスについて調べているときに覗き込んできて、隠したらしつこく教えろと言ってきた。

なぜ見せないといけないのか。なぜ言わないといけないのか。嫌だと言っているのに。家族の間に秘密を持ってはいけないのか。いや、ちがう。

私は管理されるべき対象のひとつなのだろうか。そのような態度が日々見え隠れするところに愛を疑ってしまう。(その疑いこそがコンプレックスなのだが)

日常が息苦しい。常に顔色をうかがっている。自由に生きたいのに。自分自身が自由を奪っている。頭ではわかっているのに、本能的なレベルで思考が強制されている。

 

勝手に見ていたテレビを切られるのも、エアコンの温度を変えられたり電気を切られるといったことは他人から見れば些細なことだ。だけれどその些細な事が俺には悲しく思えてしまう。なぜ平然とそのようなことをするのか。何も思わないのか?

まるで俺がただ金を稼いでくるだけの奴隷みたいに思えてくる。

やめてくれ。悲しくなりたくない。嫌な思いをしたくない。自由になりたい。幸せになりたい。幸せであったことに気付きたい。自分を不幸に向けたくない。誰か助けて。

2023年6月10日

人生がまじでキツいという話。

まじで毎日死にたくなってる。何なら、毎秒思ってる気すらする。

昔もそういうときあったけど、いつからか数年ぶりに死にたくなって以來ずっとそれを感じ続けている。

人生は進めば進むほど責任だけがクソ重くなってくる。なのに、それに反比例するように人から褒められたり感謝されることもなくなってくる。

そして、その苦しみを打ち明けようとも誰も助けてはくれない。身内であろうと心配して(いる素振りをみせて)くれはするが何か行動を起こしてくれるようなことはない。

自分の人生に責任を取るべき人間は自分以外にはいないのだ。

老いて枯れるまで地獄を耐え抜くか、すべてを投げ出してすべての人から白い目を向けられ孤独に生きるのか選択できるのは自分だけなのだ。なんて自由なことだろう!

 

どちらにせよ幸せな未来は見えないし、どうやら苦痛に満ちた日々を耐え忍ぶことはこの世界にとって当然の話らしい。

 

こんな毎日は送っていて生きている意味あんのかと思う。たぶん、人から見れば幸せに映っているだろうが、人は何かを得れば何かを失うわけで総量で見ればどうなっても幸福ポイントがマイナスになるように俺の脳みそは作られているんだと思う。

 

完全に養分。まわりのすべての人間や社会に己の身を削って差し出す為だけの人間。

こうなってしまったのは俺が他人に言われるがまま生きて、何も自分のやりたいことなど見つけられるこの歳まで来てしまったわけで、悔やんでももう遅いことなのだ。というより、どう生きてもこうなっているんだとしたら悔やむ意味もないが。

 

ってかどうすんの?まじで。これ、いつまで続くん?もう限界は超えてるんだけど?

無理すぎて普通に仕事とか休んでるしな。笑えんてば。キツすぎまじで誰か助けてよ。

ってかめっちゃ頑張ってるんだから誰か褒めてくれるくらいしてよ。タダなんだからさ。な?こどもなんか何したって褒められるんだからいいよなまじで。

大人げない?知らんがな。その大人ってやつをみんなが必死になって守ってなんの意味があんの?みんなで褒めあってハッピーになったほうが絶対良くない?という主張をしていく。

2021年8月26日

人間が自分の「幸福ポイント」を稼ぐために生まれてきたのだとしたら、多様な生き方を認めることは当然の事と思う。

ところが、人が勝手に「常識」と呼んでいるものを少し外したらたちまち「普通じゃない人」になるよね。

「幸福ポイントを稼ぐ」ことにおいて「普通」を得ることに価値があるように思えるのは、日本に「普通じゃない人」をいじめることを趣味としている人がとても多いからだと思う。

駅に変わった風貌の人がいればすぐに写真を撮ってSNSに拡散、有名人はやたらとプライベートを暴かれる等々、、、

それらの行動が自分の人生の「幸福ポイントを稼ぐ」ことに繋がるとは到底思えないのだけど、

彼らが本当に自分の人生と向き合ったときに、その障壁のあまりの高さに、まともに「幸福ポイントを稼ぐ」ことをあきらめて、安易に他人の粗を探して叩くことで鬱憤を晴らす方がまだマシという判断のためそういう行動が起こるんじゃないかと想像してみる。

多くの日本人の人生を考えてみればその想像も大きく外れたものじゃないんじゃないかと思う。

多くの日本人は大抵同じような人生をおくっていて、マイホームや、出世や、子供、といったものを持つことを何故か「幸せ」だと盲信している。

むしろ、彼らの言う「幸せ」を追わない人間は「人に非ず」という風な目線を送られる。

そのため彼らはあくせく働く。努力する姿をアピールする。その「幸せ」を手に入れるために。それが日本において異常者にならないための手段だからだ。

そんな暮らしに「幸せ」を感じることがあるのか?心から欲しいものがみんな同じなんてことはないだろう?しかし、彼らは自分の人生がすでに手遅れである(本当はそうじゃないかもしれないが)ことに目を向けたくないため、苦しい日々と釣り合いをとるように、目先の「普通じゃない人」をいじめ「幸福ポイントを稼いだ」気になってる。

彼らは今日も不安に追われながら、「偽物の幸せ」を摂取し自分を騙して生きている。

 

人々が本当に自分の「幸福ポイントを稼ぐ」ことに気づいた時、「偽物の幸せ」に頼る必要がなくなった時、自分の人生を動かす勇気を持ったとき、多様な生き方というのは認められてくるんじゃないか。この悪循環を打破することができるんじゃないか。そんな世の中になってほしい。

2021年8月17日

ちらっと昔の記事を見れば、いつも地獄にいるな俺は。まあ、そういう気分のときにしか書かんからなんだけどね。

つらいよな男は。一生働き続けないといけないんだから。やだってったってそうはいかんよね。家族がいるんだもの。

正直、夫婦ふたりで程々に働き、働くより多い時間を家族を過ごすような生き方がしたい。

というような生き方は現実的でないのはわかってる。

奥さんからはハズレ引いたなって思われるのは当然だし、奥さんの家族だってそんなやつに娘は預けられんだろうし。

また様々な人から後ろ指を刺されながら、それでも人生を楽しむ自信があるかといったら微妙。俺の事だから別の不安が生まれて育っていくに違いないし。

つらいねほんと。

こんなことを言えば叩かれるだろうけど、女の人は無職でも、程々週3のパートでも「当然」のように扱われるのでうらやましいと思う。

生まれ変わったらルックスそこそこな女子になりたい。そう思う。

 

「いま、世界の、どこにも、逃げ場はない」

2021年8月16日

残業代をすべてつけずに連日22時まで働く上司を見て、これが自分の未来の姿かと思います。

であれば、このような人生に意味はあるんでしょうか?

私は愛する人たちと楽しい時間を過ごしていたいのです。せっかく生まれたのだから楽しく、どうせ死ぬのだから悔いのないように生きたいです。今この瞬間も時間を消費しています。それは死に近づいているということです。人々はその事をちゃんと考えるべきだと思います。いい加減自分の人生を見るべきです。

本当に大切なものは何なのか。

シャチの狩り

こないだYouTubeでシャチが狩りをするドキュメンタリーを見た。シャチは人間の次くらいに賢い生き物でその狩りは人間の様にチームワークが取れた戦略的な狩りだった。

全員がチームに貢献する為に連携を取り、獲った獲物は全員で分ける、母シャチが子シャチに狩りの仕方を教える。こういうのを見ていると俺はシャチの狩りって会社みたいだなって思った。動物って賢くなればなる程、連携した方が生きるのに楽だって気づくんだな。

ただ、その狩りなんだけど水中から水面のアシカ目掛けて猛突進してアシカを跳ね上げる。執拗にそれを繰り返して内臓ボロボロになって弱ったアシカをみんなで食べるって感じで、残酷なわけ。

人間の狩りは社会で言うお金儲けの事だと思うんだけど、いくらなんでもこんな酷い事はしないよなーって思いながら見てたんだ。でもよくよく考えれば血は流れないだけでやってる事なんて大差ないんじゃないかと思った。だって俺が前働いてたとこは、ほんとに年寄りを騙して詐欺みたいな事してたもん。営業マンたちが。

俺はそういうのが嫌で辞めたわけだけど、でもこのシャチたちは生きるのに必死で相手を可哀想に想う感情なんて恐らく一寸もないじゃん。

前の会社の営業マン達もそうで、みんなに獲物つまり金を分け与える為に仕方なく残虐行為をしていたわけで、そんな中でそんな悪いことはしたくないって言う俺は唯のおぼっちゃまくんなんじゃないかと言う疑問が一瞬わいて出てきた。

でもさらによく考えてみた。

人間界のお金儲けというのは自然界で言う狩りであるのは確かだと思うけど、違うのは狩る相手が人間だということ。つまり狩りと言っても人間は人間を殺すわけにはいかないので、殺人行為に代わって出てきた手段がビジネスってわけ。これは相手を殺して食う、のではなく、相手を得させて自分も得をする、人間が人間を殺す事なく人間界を繁栄させるにぴったりな手段だ。

なので、人間の狩りは自然界の狩りより一次元うえにいる。だから前の会社の営業マンのやり方は間違っていると言える。

人間の狩りも相手が人間でなくなった途端残虐になるでしょ。牛や豚なんか殺して食う用に育ててるんだからこれ以上酷い事ってある?

人間が人間を狩るんだったら家畜を見るような目でなくて、やはり相手を得させるというのが人間らしいって事なんじゃないだろうか。

2018年12月10日

3ヶ月ぶりくらいか、ここに戻ってくるのは。なんだかごちゃごちゃと考えすぎてまた良くない方向を向いてしまった、そんな日だった。

人間は一番感謝しないといけない人を恨んでしまう、という誰かの格言はまさしくその通りであり、俺も一番感謝すべき人に対して苛立つ事があるが、それは昔からのことなのだ。

俺はそういう自分が自分の中で一番と言える程嫌いだ。その性格のせいで人は離れていく。俺は、寄りかかれるものがあれば全力で体重を預けてしまうような情けない男なのかも知れない。と思うと俺に一般的に成熟した社会人の様な人間関係を作ることは向いてないのではないかと考えてしまう。しょっちゅうね。

この様なウジウジした考えを俺は一体いつまで大事に持っておくことだろう。と最近思い出してきた。

最近は彼女も出来たし休日などは会いたい人としか会ってないし、楽しく暮らしているつもりだったのに。

ネガティブの落とし穴に片足突っ込んでしまうと、いつもこれが出てくる。

いい加減嫌になる。ウジウジした自分を超えるというか、いつまでも捨てきれない自分が嫌になる。

 

それと重なるように、昔の女。君は一体いつまで俺の中に生きているつもりだと言いたいね。彼女が俺のことなど初めからいなかったかのごとく忘れて暮らしていることは間違いないのだけど、彼女は俺の中に確かにいるのだ。

嫌な感じだ。彼女はウジウジした俺と、俺の心の陰で同居している。

 

彼女とウジウジした俺と、今の俺は一生三人でぐるぐるぐるぐる生きていくのだろうか。そのことを考えるととても嫌な気分になる。嫌な気分にはなるけれど、どうしても捨てきれない自分がいて、それも嫌になる。

思い出は遠ざかれば遠ざかる程輝いて見えるし、社会人になった暮らしはあまりにも真っ暗だ。

今の彼女はとても好きだし、それは昔の女以上だとも思うけど、でも彼女は消えてくれない。俺はひとり彼女の消し方を考えるが、考えれば考えるほど光り輝く過去に足を取られるばかりという。

 

恋は呪いだと思いました。寝ます。