日記帳

ぼくの日記です。

2021年8月26日

人間が自分の「幸福ポイント」を稼ぐために生まれてきたのだとしたら、多様な生き方を認めることは当然の事と思う。

ところが、人が勝手に「常識」と呼んでいるものを少し外したらたちまち「普通じゃない人」になるよね。

「幸福ポイントを稼ぐ」ことにおいて「普通」を得ることに価値があるように思えるのは、日本に「普通じゃない人」をいじめることを趣味としている人がとても多いからだと思う。

駅に変わった風貌の人がいればすぐに写真を撮ってSNSに拡散、有名人はやたらとプライベートを暴かれる等々、、、

それらの行動が自分の人生の「幸福ポイントを稼ぐ」ことに繋がるとは到底思えないのだけど、

彼らが本当に自分の人生と向き合ったときに、その障壁のあまりの高さに、まともに「幸福ポイントを稼ぐ」ことをあきらめて、安易に他人の粗を探して叩くことで鬱憤を晴らす方がまだマシという判断のためそういう行動が起こるんじゃないかと想像してみる。

多くの日本人の人生を考えてみればその想像も大きく外れたものじゃないんじゃないかと思う。

多くの日本人は大抵同じような人生をおくっていて、マイホームや、出世や、子供、といったものを持つことを何故か「幸せ」だと盲信している。

むしろ、彼らの言う「幸せ」を追わない人間は「人に非ず」という風な目線を送られる。

そのため彼らはあくせく働く。努力する姿をアピールする。その「幸せ」を手に入れるために。それが日本において異常者にならないための手段だからだ。

そんな暮らしに「幸せ」を感じることがあるのか?心から欲しいものがみんな同じなんてことはないだろう?しかし、彼らは自分の人生がすでに手遅れである(本当はそうじゃないかもしれないが)ことに目を向けたくないため、苦しい日々と釣り合いをとるように、目先の「普通じゃない人」をいじめ「幸福ポイントを稼いだ」気になってる。

彼らは今日も不安に追われながら、「偽物の幸せ」を摂取し自分を騙して生きている。

 

人々が本当に自分の「幸福ポイントを稼ぐ」ことに気づいた時、「偽物の幸せ」に頼る必要がなくなった時、自分の人生を動かす勇気を持ったとき、多様な生き方というのは認められてくるんじゃないか。この悪循環を打破することができるんじゃないか。そんな世の中になってほしい。