日記帳

ぼくの日記です。

2018年3月14日

ホワイトデーだ。バレンタインデーのお返しを先輩と一緒に買いに行ったのに、今日先輩が勝手にひとりで配っててちょっとムカついた。

 

 

このようにして人は愚痴を言うことでストレスを発散させるわけだけど、まわりを見る限りその内容は往々にして「自分が受けた理不尽」に対するものだろう。自分が理不尽を受けてそれに対して腹が立ち愚痴を言うことは良いとして、例えばその愚痴の内容が「自分の誤り」が原因で起こった事だとすれば、まわりの反応はたちまち変わってくる。

例えば机の上に置いてあった財布が盗まれた、だったら聞いてる人は「そんなとこに置いとく方が悪い」と言う。

俺自身の話で言えば「ミスをして人に迷惑をかけることが多く悩んでる」と誰かに話すとすればきっと「お前が悪い」とか「もっとしっかりしろ」なんていうある程度の辛辣さをもった言葉が飛んでくるに違いないのだ。

なんでもかんでも自己責任の国に居て恐縮ながら言わせてもらうと、

そのところについて俺は疑問を持っている。

 

財布を盗まれた人に対して「そんなとこに置いとく方が悪い」と言って何か結果が変わるかと言ったら、変わらない。それどころか、傷心中の人間に更にムチを打つ様なものだと俺は思う。

同じようにミスをして悩んでる人間に対して「しっかりしろ」と言うのは間違いだと思う。しっかりしろって言われてしっかりできるならそもそも悩んではいないだろう。

 

じゃあどういう言葉が欲しいかと言うと、ただ共感してくれて悲しい気持ちに寄り添ってくれさえすればそれでいい。

しかしながらそういうことがわからない人間が世の中のほとんどだと思う。少なくとも俺の持っている狭い世界の中では。別に役職のついた何とか長とかだって変わらない。

 

それとも、俺が弱すぎる心の持ち主だからなのだろうか。世の中の皆さまは自分の誤りが原因の事に対しては真摯に受け止め、前向きに改善していく人間ばかりなのだろうか。そうなのだとしたら、それ程の器量を持てない自分はやはり社会には適応していく事が出来ない人間なのかと思い更に自信を失う。

 

とにかく何でもいい、俺の話を聞いてただうなずいて肯定的な言葉で励ましてくれ。俺が今一番欲しいものはその言葉だ。自分だけを信じるというような考え方をしていると俺は身がもたない気がするのだ。